日本史に残る正岡子規の死生観

正岡子規について

夏目漱石の親友であり、俳人ということでも知られている正岡子規ですが、とても優れた俳句を幾つも後世に残しており、優れた随筆家でもあったのです。
正岡子規は学生のときから結核を患い、結核菌が背骨にまで入り込んでしまい脊髄カリエスを発症し、それからは寝たきりの人生を余儀なくされる中で、さまざまな俳句や随筆を数々つくっていきましたが、1867年〜1902年(35歳)という若さで亡くなっています。

漱石は英国留学に出発するときに(明治33年)、今度日本に帰るまでに子規と顔を合わせるのは難しいだろうと覚悟を決めたと言われています。
子規は体の強い痛み、動かすことができない辛さに苦しみ、絶叫し号泣することもあったとのこと。
そこで猛烈な食欲と表現意欲によって、この苦しみの中自分を支え、自殺の衝動と闘っていのです。

この苦しい日々から生まれたのが『病牀六尺』という随筆ですが、35歳の5月に連載を始め9月の死の2日前まで連載されています。
子規はこのことからも、死ぬ少し前のとても苦しい毎日の中で、禅宗の悟りに気付き死生観を定めたのでことが見えてきます。

子規の死生観がはっきり見える言葉

病気の苦しみの中で書かれた随筆である『病牀六尺』には、彼の死生観がはっきり見える言葉が書かれています。
「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」というものです。

この言葉には、子規が今まで悟りというものを表面的にしか見てなかったということに気付き、本当の苦しみの中で禅宗のいう本当の悟りに辿り付いたのです。
子規はこの闘病生活の人生の中で自死と闘いながら、彼なりの死生観をはっきり見据えることができたのです。

死生観を読み取る

子規の死生観は強い痛みや、体を自由に動かせないという最大級の苦しみを抱えて生きる中で、初めて本当の悟りの意味に気付いたというものです。
特に昔の日本人の美しいとされていた死生観である潔さや、いつでも穏やかな気持で死に向かうことができることこそが禅宗でいう悟りだと思っていた子規。
確かに武将などの死生観を見ると一見死に対して潔く見えますが、激動の時代を命がけで生きたからこ死に対しても平静でいられたのではないでしょうか。

強い痛みを毎日抱えていた子規にとって死ぬ方がずっと楽だったはず。
そのため自分はいつでも平気で死ぬことが、できると考えていたのではないでしょうか。
しかし平気で死ねることが悟りではなく、どんな人生でも平然と生ある限り静かに生きることこそ、悟りであるということに気づいたのです。

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